読書と場の記憶

読ませてくれた本について

【Posted by  菅原龍人 ryuto sugahara 】

 私はちいさな古本屋をやっているのですが、読書と場の記憶ということでいうならばまずもってして自分の店の中では読書はできないということが言えます。何度か試みたことがあるのですがどうやっても店の中では本は読めない。仕事場であるからといえますし、いつお客さんがはいってくるかもしれない。落ち着かないのです。一冊の本を読まねばならないにしても他の本に目移りしてしまう。果たしてこれは私にとって利のある本だろうかと不安になるんですね。仕事柄いろんな本を目にするのですがそのほとんどが読めない、いや読めるのだけど読む時間をとれない。そもそも売り物であるので気がむかないのです。なんともいやな仕事でしょう。曲がりなりにも本がすきで始めたのですから店番しながら本を読むなんて理想として私にもあるにはあるのです。私は店で本を読むのをあきらめました。

ならば喫茶店はどうだろうか。私は昨年の4月30日をもって本格的に禁煙をはじめました。新たな元号が施行される日にあわせて煙草をやめてみたのです。それまでは街の古い喫茶店で珈琲と本と煙草の三つでもって2時間3時間過ごしていたのですから、私も健康な人間になったのかもしれません。というのも煙草をやめたことにより喫茶店での読書もやめてしまったのです。喫茶店で小難しい悪書を読みながら煙草なんて心にも身体にも毒でしょう。背中は曲がり、足腰も弱り咳込みながら頭の中は形而上学的なあれこれに満たされすれ違う人々が下等な生き物に見える、そんな阿呆な時期は愛おしいながらも私の生活からは去っていったのでした。健康と読書というものも考えます。かつて40年前はニューエイジ、神秘主義、ニューエコロジー、東洋思想といわれたものはいまやスピリチュアルビジネスとして生活に入り込んでいます。ニューエイジとはいわば精神の健康を唱えていたのですが、いまや書店の半分ちかい書籍群が精神の健康と上昇思考に裏付けされた潔癖さを消費者に約束しているような気がします。いやもちろん、これは私の主観なので実際は多種多様な本が並んでいますよ。読みたい本を買うというより、皆が読んでいるから買わねばならない。無理やり買わせるための表装のデザイン。かつてとは本の売り方が真逆になったようにおもいます。

 話がわからんようになりました。

 禁煙したことにより読書の場がなくなったというのは大げさでした。ほんとうのところを言いますと私は、寝る前に本を読んでいます。とはいえ多くの方がそうなのかもしれませんが最近では寝る前に本を読もうとしてもスマートフオンを眺めることが多く、無駄にどこぞのだれだれのツイートをみたり、なにそれの動画をみてみたり。そんなこんなしているうちに寝ているのです。なんだ、結局寝る前の読書も出来ていないではないかと思われたことでしょう。いや、読んでいるのですよ。週に2回は。それいがいは読みません。ですがおもしろいですね。読もうとしても気が乗らない日はあるものですし集中的に読み下していく週もあります。でもひとつ重要なこととして、眠れない日はここ最近少なくなったということです。スマートフオンを眺めるにしろ本を読むにしろ目は疲れ意識は溶けていきますからねむくなります。これも禁煙の効果かもわかりませんが一日のうち本ばかり読んでいたひところは不眠の日もありそれで苦しんだこともあります。なぜかというに読んだ内容が頭を悩ませ興奮させてくれたからでしょう。それはそれでよいのですが眠れないのはつらいものです。

 こういうことがありました。大阪の古書交換会へ出向いたとき(古本の仕入れでたまに)、宿泊先の古いビジネスホテルにてはじめて聖書を読む機会を得ました。私はちいさな古本屋ですが、なんでも売り買い屋みたいなものですので宗教書もあつかいます。とある教会の方から大口の基督教書籍の買取があり、一年かけて小さい古本屋なりに沢山売ってまいりましたので一般的な見識なりありました。ですが、これは恥ずかしいのですが、聖書は読んだことはありませんでした。ご存じの方もおられると思いますが古いビジネスホテルの子引き出しには聖書や仏教聖典が常備されています。これはホテルが宗教的なかかわりがあるということではなく、日本国際ギデオン協会という団体ができるだけ聖書に触れる機会を持ってほしいという目的で置かれてあるものです。交換会でうまいことほしい本が落札できず、落胆しておりましたので、なにか本でも読んで慰めてもらおう。そこではじめて聖書を手に取ってみたのです。裸本の赤茶の新約聖書でした。めくってみるとこれがなかなか面白いのですね。最初から読みませんよ。せっかちですから途中から読むのです。するとどのページから読んでも示唆的なことが書いてある。かつてみた映画や文学の中で引用される節をおもいだしめくってみれば、なるほどそこまでの文脈が書いてありますのではじめて意味を理解できるわけです。未読の方はぜひ読まれてみてください。私自身は浄土真宗系の大学にいましたし家がらも仏教でしたので基督教の関わり合いは皆無でした。ですので古本屋として基督教を扱ったのがきっかけではありますが、自らの読書に対する知見を得たように思います。「あんたに読ませるかどうかはこちらが決める」と本に言われたかのようです。いや、なにが起こるかわからないですね。

 よくわからないことをながながと書いてしまいました。

本はお金を払わねばやってきません。ですけども読書はむこうからやってくるものです。読書がやってくるのを本を眺めながら待つくらいがいいのかもしれませんね。

投稿者 :  菅原龍人 ryuto sugahara

2016年熊本市坪井にて古本屋「タケシマ文庫」を開業。本の売り買いを主な仕事としている。

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